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三和町内の歴史的な見どころをご案内します。


【菟原宿と細野峠】

 

 菟原宿は京街道(山陰道)の宿場の一つです。現在の菟原下、中地区に当たり、参勤交代の大名が泊まる本陣や、荷物や人馬を継ぎ立てる人足駅問屋などがありました。明治以降、街道のすぐ西側に道幅の広い道路(旧国道)が造られたのに伴って、京街道沿いの商家や住家が移築されました。白壁の家々や酒蔵などが軒を連ねるたたずまいのあちこちに、かつての「菟原宿」の面影を今に伝えています。

 かつて京街道を行く旅人らは、菟原下から対岸の菟原中へ行くのに土師川を歩いて渡り、大水の時は足止めされたり、川人足のやっかいになったりしたといわれています。今は2代目の「両橋」が菟原下と菟原中の文字通り橋渡しをしています。菟原中と隣の京丹波町を直結するのが延長約2kmの細野峠。平成8年、文化庁の「全国歴史の道百選」に選ばれたのを機に、峠を歩く人々を見かけるようになりました。峠の頂上近くに寺院跡があります。山号を宝酢山、寺号を円通庵と称し、西国三十三カ所、坂東三十三カ所、秩父三十四カ所の計百体の観音像が祀られていました。現在、観音像は菟原中の高台にある龍源寺に移され、金色の光を放っています。峠道の反対側には旅人が疲れた足を休める茶店や、のどを潤おす清水が湧き出ていました。頂上付近には、江戸時代の末期に起きた百姓一揆の首謀者の首がさらされたところもあります。

(執筆:和田憲幸)

 


鹿倉山の頂上から眺める日の出と雲海
鹿倉山の頂上から眺める日の出と雲海

【鹿倉山】しかくらやま

 

標高548ⅿの三和町で最も高い山。 最近では登山の雑誌や書籍で「丹波の名山」として紹介され、多くの方にその名が知られるようになりました。 山中には案内看板や標識が設置されているので登りやすく、また中世に栄えた太平寺の跡や、熊野権現神社、鉤掛地蔵などがあり、コースを選べば初心者のハイキングから中級者の登山まで幅広く楽しむことができます。

 

登山コースや写真はこちらからご覧ください


【大原神社】おおばらじんじゃ

 

安産と五穀豊穣の神様を祀り古くは江戸時代から地元はもちろん遠方の参拝者も訪れる神社。

綾部藩を治めた九鬼氏も奥様の懐妊の際は必ず訪れたといわれています。

 


【産屋】うぶや

 

妊婦が出産の為に籠った茅葺の建物。古事記、日本書紀にも記述があり日本の産育習俗として古くから使われてきました。大原では大正時代までこの習慣が続きました。


【経ヶ端城址】きょうがはなじょうし

 

 川合川の中ほど左岸、標高140m(比高約30m)の尾根の突端に位置しています。

経ヶ端城址跡の特徴は約12mの方形の「土壇」をもっていることで、主郭は長さ27m、幅は最大20mあり、西方に更に3段の平地があり、2段目の郭は北側斜面に帯状にめぐり、3段目の郭は主郭の背後の空堀とつながっています。この空堀は通路により一旦断たれますが、南の斜面に堅堀となって連続しています。主郭への虎口も比較的明瞭に残っており、進入路に若干の折れをつけ、外まわりの郭も少し南にせり出して、旧三和町域に残る城址としては比較的新しい縄張りといえます。

 東西縦延長は約120m。城山保存会が公園化し、川合・岼集落を一望できると共に四季の花々を楽しめます。2013年以降、春には野点の会が開催されています。


【宇麻谷神社】うまたにじんじゃ

 

 鎌倉時代、源平の戦いで大きな手柄を残した源義経。 しかし兄の頼朝に追われ丹波に逃げてきました。そのころ頼朝の家来だった土佐の坊という人は義経を捕えるように命令されていましたが、運悪く菟原で数人の男に乗っていた馬を殺されてしまいました。その上、下川合や周辺の村々では大きな事件が次々に起こりはじめました。雨は降らず、馬を殺した若者たちもみんな亡くなってしまったのです。途方に暮れた村人は修行中の行者様に相談したところ、行者様は「村人の中に殺生をしたものはいないか」とたずねました。村人が土佐の坊の愛馬を殺したことを伝えると、その馬のたたりが村人を苦しめていると話したのです。その後、村人は行者さまの教えの通り、小さなお社を建て一心に馬の霊を慰めました。そのおかげで村には平和がもどり人々は安心して暮らすことができるようになりました。

 それからは「馬谷さま」とお社を敬いお供えや掃除をし、その後神社の名を「宇麻谷神社」と改めました。「宇」とは神殿、「麻」は布を作る麻の事です。その後も麻(よもぎ)のようにまっすぐな心で生きていくことを誓って、今でも毎月神殿や参道の掃除をするなどして神社を大切に守っています。


【渋谷神社】しぶたにじんじゃ

 

 三和町字岼小字宮腰に所在。饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祀る。 『丹波志』には「祭神渋谷土佐坊ノ霊」とし、岼・上川合の産神となっています。 また「神社明細帳」には「饒速日命」とあります。なお『丹波志』によると「此地ニ毘沙門堂三間四方」と記され、境内に毘沙門堂があったと伝えられます。 規模・構造は一間社流造で、正面に唐破風造方一間の拝所を造りつけています。この形式は江戸時代後期から丹波・丹後一帯に散見されますが、これは参拝の場である土間拝所に雨よけの機能をもたせたものであると考えられます。

 当社には、享保2年(1717年)10月大工藤村正方の十分の一の図があります。現在の社殿は、擬宝珠(ぎぼし)に「明治廿八年(1895年)」とあることから、同時期の再建であろうと思われます。


【霧窓山 廣雲寺】むそうざん こううんじ

 

 廣雲寺は、三和町芦渕小字琴ヶ瀬に所在の臨済宗妙心寺派の寺院で、中出興雲寺の開山、回天和尚の隠居寺として知られています。本尊は釈迦如来です。

 当寺には、「回天塔」と刻まれた法塔、境内には観音堂があります。観音堂の本尊は観音菩薩で、創立は安永3年(1774年)9月18日です。


【PT境界】ぴーてぃーきょうかい

(ペルム紀ー三畳紀)

 

 今から約2億5千万年前、海に住む生物の90%以上が絶滅するという地球の生物史上最大の大事件が起こりました。地質学ではその大量絶滅より前の時代を「ペルム紀」(約3億年~2億5千万年前)、後の時代を「三畳紀」(約2億5千万年~約2億年前)といい、地層の中でその境目となるラインを、前後の地質年代の頭文字を取って「P/T境界」と呼んでいます。

 このP/T境界を含む地層が地表に路頭しているケースは非常に珍しく、全国でも数例ほどしか確認されていませんが、まさにその一つが福知山市三和町菟原下にあります。

 境界線の下と上では色の違いがわかります。境界の下側、つまりペルム紀の地層は「放散虫」というプランクトンの化石を含むチャートという岩石で生成されており、上側の三畳紀の地層は黒い頁岩で、コノドントという化石が確認されています。この時期に放散虫が絶滅し、黒色の泥がたまる海底で別の生物の痕跡が見られるまでの過程が記録されているのです。

 ペルム紀の末に生物の大量絶滅が起こったのは海中の酸素濃度が極端に低下したためと考えられています。なぜ酸欠状態になったのか、はっきりとした原因は特定できていませんが、この時期に地球規模で起こった火山の大噴火との因果関係が指摘されています。

 

京都府のレッドデータブックに掲載されています。


【梅田神社】うめだじんじゃ

 

 祭神は天児屋根命(あまのこやねのみこと)、彦布都押信命(ひこふとおしのまことのみこと)です。また、紀貫之を祀るともいいます。

 「丹波志」によると、福林寺の末寺の神護寺が宮寺としてあったことや、文治5年(1189年)の創建(諸説あり)で近隣に点在する梅田七社の初めであるといいます。(紀貫之の子孫が、人皇考元天皇第4皇子を祀ったのが始まりとも言われています。)「菟原村史」には、七社の神輿は旧9月9日に菟原下梅田神社に勢ぞろいし、菟原中の松ヶ端という所にこの神輿が集まり、今も「御幸道」と称しているとあります。

 本殿は、天保13年(1842年)罹災し、嘉永元年(1848年)3月15日再建されました(藤田家文書)。形式は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)を2軒並べて接続させた連棟式社殿で、身舎は総円柱で縁をまわし、正面には吹寄格子状の扇、浜縁、浜床があります。妻に二手先詰組、上に一段持ち出し、二重虹梁大瓶束(にじゅうこうりょうたいへいづか)とします。身舎正面に軒唐破風をつけ、全体の屋根中央に千鳥破風を設けています。身舎と向拝は海老虹梁でつなぎ、手挟み配されています。幕末の贅を尽くした彫刻や絵様は見事で、竜や唐獅子、脇の透かし彫りなど非常に見応えがあります。

 彫刻を手掛けたのは中井権次一統の六代目、正貞とされています。中井家は丹波柏原藩(兵庫県丹波市)の宮大工・中井道源を初代とし、4代目の言次君音(ごんじきみね)以後、9代目の貞胤まで神社仏閣の彫刻師として活躍した一統で、6代目正貞より権次を名乗ったことから中井権次一統と称します。 徳川家康お抱えの宮大工で日光東照宮や江戸城を手がけた中井正清(1565~1619)の血筋を引くとの説がありますが、出自の詳細は不明です。現存する作品は北近畿一円に及んでいます。


【両橋】りょうばし

 

 昭和13年(1938年)に完成。長さ56.4m、幅6.5mの鉄筋コンクリート製です。菟原中と菟原下をつないでいる重要な橋梁で、当時の旧菟原村が村有林の一部を売却して地元負担分にあてたという歴史があります。

 「支間の大アーチが印象的で、拱腔部の小さな連続アーチ、そして高欄にもアーチが組み合わされた姿が意匠に優れた、山陰街道の名橋である。」として、平成20年度社団法人土木学会選奨土木遺産に認定されました。


【菟原下上ノ山西国三十三箇所霊場】

うばらしもうえのやまさいごくさんじゅうさんかしょれいじょう

 

 平安時代より朝廷や貴族の間で、観音さま(観世音菩薩(かんぜおんぼさつ))をご本尊とする京都に近い近畿地方と岐阜県に在る33のお寺やお堂を霊場とした巡礼が行われるようになりました。観音さまはあまねく世の人々を救うとされており、観音霊場をめぐれば罪が減ずると信じられるようになったことによります。霊場の数が33箇所であるのは、観音さまが人々を救うとき相手に応じて33の姿に化身するという信仰に由来します。江戸時代には、この巡礼が民衆にも浸透していきました。

 菟原下上ノ山西国三十三箇所霊場は、明治27年(1894年)、その当時の福林寺の住職と地元の振興に篤い人たちが発起人となり、この地内に霊場を勧請するため東奔西走してお堂を寄進したものです。福林寺山門前の1番札所(青岸渡寺)を起点に上ノ山をめぐり、終点の善光寺までの観音さまを参拝します。


【龍源寺】りゅうげんじ

 

弘化元年(1844年)に龍源寺良英和尚や住民の発起で建立されたお堂で西国霊場33所ほか秩父34所、坂東33所計100体の観音像を安置。四国霊場の砂も納められています。


【景清稲荷】かげきよいなり

 

 創建等の由緒は不明です。

 昔、丹後国で大角力(かくりき:相撲)大会があったときに、飛び入りで「かげきよ」と名乗る者が取り組んだそうです。ところが、これが強の者で、他に及ぶ者がなく、出身を尋ねたところ「菟原村」だと名乗ったといいます。それ以来、菟原村に立ち寄り「かげきよ」のことを聞く者がたくさんいるけれども、村には角力が誰一人としていません。これは「ゴウドの森」の主に違いないということで、以来「景清稲荷」と呼ぶようになったといいます。

 この「ゴウドの森」には「小姓(こしょう)稲荷」があります。小姓稲荷は京都花山院御殿内にある稲荷明神の眷属(けんぞく)で、天保元年(1830年)9月に菟原村の娘にとり憑いていたので、花山院御殿に願ってゴウドの森へ勧請したと伝えられています。


【バンド地蔵】ばんどじぞう

 

 バンド坂にあり、江戸時代の元禄期に旅の職人が造ったものと伝えられています。

 また、美濃国の武士が娘の供養のために建立したとも言われています。

 顔がとても大きく全国的にもめずらしい地蔵で、疫病からこどもを守ってくれるといわれています。


【鹿倉山 成満寺】ろくそうさん じょうまんじ

 

 慶長8年(1603年)「元阿弥陀堂」と称し仏堂を建立、正徳2年(1712年)8月21日に本山より寺号公称が許可され成満寺となりました。寛永3年(1626年)に現在地に移転。ご本尊である「阿弥陀如来立像」は元禄4年(1691年)2月3日に本山より拝受したと伝えられます。

 境内に高くそびえる太鼓堂(写真左手)は、その姿こそ平安の建築を思わしめ、近在に稀にみる建物です。

<乳イチョウ>

 成満寺が再建された寛永3年(1626年)には既に植えられていたとか、推定樹齢は約400年。

 その名のとおり、木の栄養分が幹や枝に無数に留まり乳のように垂れ下がっているのが特徴で、大きいものは直径15cm、長さ70cmにも達し、樹齢の古いイチョウにみられるといいます。

 いつ頃の言い伝えかはっきりしていませんが、「乳イチョウの木に願うと乳がよく出る」と言われ、母乳の少ない母親が遠くからお参りし、樹皮を削って飲んだといいます。


東の古城跡概要図
東の古城跡概要図

【友渕古城跡】ともぶちこじょうあと

 

友渕川を挟んで東の古城・西の古城(南の郭群〔万灯山〕、北の郭群)があり、いずれも明智光秀が丹波攻略の基地として築いた城と伝えられています。

 

<東の古城>

 東の古城は友渕川右岸の尾根の突端に位置し、城の東西にはクグヌギ峠があり、京丹波町に通じています。また、南は兵庫県篠山市との境界を目前にしています。

 『丹波志』に「陣所ノ跡、明智氏歟、東ノ山上城跡ノコトシ、福智山城ヲ責ル時民家ヨリ上ルコト二町半、西ノ山ニ遠見ノ場上ルコト五町半」と記すものに符合しています。

西の古城跡概要図(北の郭群)
西の古城跡概要図(北の郭群)

<西の古城(北の郭群)>

 友渕川の左岸、南北2ヶ所の部分からなります。

 北の郭群は、山頂から北方約300m・標高約210mの尾根にあります。南の郭群のある尾根とは深い鞍部で断ち切られ、独立した山のように見えます。山頂には現在、南から金比羅社・天満宮・秋葉社が祀られています。


西の古城跡概要図(南の郭群・万灯山)
西の古城跡概要図(南の郭群・万灯山)

 <西の古城(万灯山)>

 南の郭群は標高300mの山頂(万灯山)から北方に傾斜する尾根に沿って連なり、山頂から南は急斜面で兵庫県篠山市との境界です。

 『丹波志』に「小城也、万灯山ト云」として「今モ城山ト云、古城主明智兵庫頭、城山ノ南ノ山上ニ諸方目見ノ士住ス、北山ヲ新万灯山トテ万灯山両所ニアレハナリ、兵庫頭家臣小川和泉守ト云兵庫頭従此所福智山ニ移ル、此時友渕村ノ土民歩役ヲ不受、依之其後二十三石六斗地無高ヲ定、後達公義古ノコトシ」と記されています。