福知山観光協会三和支部の過去のふれあいハイキングの資料に記載していた文章を転記しています。
山陰道は古代から開かれた都と山陰地方を結ぶ交通の要路ですが、時代によって主要ルートに若干の変更があります。
古山陰道と呼ばれ主に奈良時代まで利用されていたのが、京→老ノ坂峠→亀岡を経て現在の国道9号線に沿って福知山盆地に出るルートです。
平安時代になると「延喜式(えんぎしき)」という記録によりさらに具体的にルートを把握することができます。この記録によると、主要ルートは亀岡→篠山→氷上郡→福知山盆地へ至るルートとなります。
その後、平安末から鎌倉・室町時代にかけてはこの時期の公家の記録や主要武将の行動などから、再び古山陰道が活発に利用されていたようです。
古歌の中にも「大江山」(老ノ坂)や「生野(いくの)」はたびたび登場します。その代表である「大江山生野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」(小式部内侍)が詠まれた頃にも、さぞ頻繁に利用されていたことでしょう。
江戸時代に入ると古山陰道のルートは参勤交代の要路となり、一般的には呼び名も「京街道」と称されました。「細野峠」の記録が登場するのも江戸時代からです。
明治9年(1876年)に丹後国と天田(あまだ)郡が京都府に編入されるや、京都と宮津を結ぶ街道の整備が注目されはじめました。これによって山陰街道の改修が進み、京都宮津間の車道開設工事は明治22年(1889年)に完工しました。山陰街道は明治18年2月に国道23号線、大正9年(1920年)4月に国道18号線、そして昭和27年(1952年)12月、国道9号線に指定されました。
山陰街道の整備によって、福知山市三和町大身(おおみ)地区の街道が整備されたことにより「細野峠」は完全に裏街道となってしまいました。ただし、改修当時の府会議事録によると、「大身の新道は状態良好であったが、距離が遠く大きく迂回しているため、平日は誰一人通らない」ような状況だったといいます。当時はまだ歩行が多く庶民の峠として栄えた細野峠の役割が今しばらく続いたのです。
細野峠が山陰道としての役割を終える決定的な要因をもたらしたのは、明治43年(1910年)8月の京鶴(けいかく)鉄道(現在のJR山陰本線)の開通と、国道18号線の整備にともなう、交通機関の発達でした。これにより、徒歩を中心に山越えをする峠道はひっそりと後世にその姿を伝えることになるのです。
福知山市三和町菟原(うばら)中ー大身にいたる峠をいいます。平成8年11月、全国に残る旧道・峠の中から、「歴史の道百選」に選ばれました。選考基準は、
①原則として土道・石畳道・道形などが、一定区間良好な状態で残っている事
②全国的な主要街道の一部である事
などです。
「細野峠」が文献に登場するのは、江戸時代の代表的な儒者 貝原益軒(かいばらえっけん)が元禄2年(1689年)この地方を旅し、「西北(せいほく)紀行」を著しました。大久保村から細野峠にかかった益軒は、「是よりはほうその嶺(大いなる坂にて険し)を越、菟原村を過千束(せんぞく)に至る、日暮に薄暮なれば爰(ここ)に宿りぬ」と記しています。また、文化11年(1814年)には、伊能忠敬の測量隊一行も細野峠を越え、「測量日記」に峠名を記しています。
江戸時代に細野峠の名を記した文献は、同一系統の物を除いて6例ありますが、それぞれに呼び名が異なります。古い順にあげてみると次のようになります。
①ほうその嶺(貝原益軒「西北紀行」)
②朴(ほう)の峠(安房国北条藩「丹波御領分様子大概帳」)
③細野嶺、村嶺(「丹波志」)
④細野峠(伊能忠敬「測量日記」)
⑤菟原峠、宝祚(ほうそ)の峠(「百観音堂道具施主名前帳」龍源寺文書)
⑥大久保峠(由利六左衛門「参宮道中記」)
以上の峠名から元禄のころには「ほうその嶺」と呼んでいたものが、のちに細野と呼称されるようになったと思われます。この中でもっとも公式な文書に近い④では細野峠を記載されていることは注目されます。また、⑥は庶民の道中記録ですが、菟原側から細野峠を越えた時の記録です。菟原側では大久保へ越す峠ということでこのように呼称していたようで、地元では「大久保峠」と呼んでいたと思われます。
⑥の由利六左衛門は、但馬国豊岡町の町名主です。弘化5年(1848年)3月に息子とともにお伊勢参りのために豊岡を出発し、伊勢に向かいました。この時の記録「参宮道中記」には、往路、復路に細野峠が記されています。
17日に宿泊先の長田(おさだ)(福知山市長田)を発った六左衛門一行は、昼時に細野峠の入口菟原中村の宿に到着。宿では、但馬屋義左衛門方で昼弁当を食べ、宇治茶同様と絶賛した茶を飲んで、いよいよ細野峠(大久保峠)にかかります。
一、此義左衛門ヨリ直ニ大久保峠ニかかり申候、登りハ道宜、上り廿町迄と承也、五ヶ年前辰年、新ニ三十三所之観音堂建、此所ニ而少間休足いたし、天晴居候ニ付駕ヲ出、大久保迄歩行いたス
登り道は比較的平坦で良好なことや、峠頂上付近の百観音堂のことを記しており、当時の細野峠を実際に通った様子を知ることができます。
元治元年(1864年)7月、京都の蛤御門の変(禁門の変)で敗れ、負傷した長州兵が次々とこの峠を越えて落ちていったのを見たという古老の言い伝えがあります。
峠の頂上付近には、宝祚山百観音堂円通庵(えんづうあん)の跡地が今に残ります。百観音堂は弘化元年(1844年)10月に当時の龍源寺住持良英(じゅうじりょうえい)和尚や地元の人々の発起により建立されました。
堂には西国三十三、秩父三十四、坂東三十三カ所の霊場、合わせて100体の観音像(「百体観音」という)が安置されました。さらに四国八十八カ所の霊場の砂も納められ、この観音堂へ詣でただけで、これらの功徳をえることができたといいます。百体観音の施主には丹波・但馬や京などから寄進があり、広さからもいかに活発に広く多くの人達が細野峠を行き来したかがうかがえます。また、嘉永5年(1852年)には円通庵の版により、「丹波西国卅七所道中記」が蔵版されました。
大正の初め頃に観音堂は無住となり、大正年間に龍源寺に移築されました。また、百体観音は平成の寄進により修造され、龍源寺に納められています。
龍源寺
曹洞宗金昌山龍源寺。日吉町胡麻(現在の南丹市)の龍沢寺末です。細野峠の百観音堂は、当寺20世良英和尚により建立されました。
境内には百観音堂の他、阿弥陀堂などがあり、八幡神社も龍源寺の境内社です。正面庭園中央には、近江式文様の開花蓮を備えた宝篋印塔(福知山市指定文化財)が建っています。若干磨滅していますが、その様式から室町前期の建立と推測されます。
円通庵跡の古井戸より湧き出るこの清水は山陰道の要衝として行き交う多くの旅人や、観音に参詣する人々に一時の安らぎを与えていました。平成19年に福知山環境会議と細野峠を守る会により整備されました。
湧き水が出ており、旅人の喉を潤しました。湧き水のほとりには地蔵がありましたが、盗難に遭い、現在その姿をみることはできません。
菟原中の垣内(かいち)であり、その名のとおり細野峠の麓の宿屋で賑わいました。現在も藤屋、真粉(しんこ)屋、新し屋、阪本屋、油屋などの屋号が残ります。
宿の入口左手の藪を「ネズの森」と称して、源頼光一行が大江山へ鬼退治に行くときに、一夜を明かした所と伝えられています。
木造の足を投げ出したような形をした地蔵があったといいます。足が痛い人がいくと治るとか、休憩所として足を投げ出して休んだところにあったからこう呼ばれていたとも言い伝えがありました。
残念ながら、数年前に盗難され現在はみることができません。
「右さ々山道」、「左り京」と刻まれた道わけ地蔵があります。
ここで、篠山街道、京街道、宮津街道とそれぞれに通行があり目印のような役割があったものだと思われます。
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